昭和の化石の英語教室

昭和の終わりに日本を離れたラッキーな老人の英語教室

「ひろゆき」さんについて

私が日本を離れた時には、まだインターネットは存在していませんでした。携帯電話は「ウルトラ警備隊」のハヤタ隊員が使われていたもの以外では、実際に見たことはありませんでした。よって、「ひろゆき」さんのような方もいらっしゃいませんでした。

 

彼のユーチューブビデオは、全部見たわけではありませんが、なかなかけっさくです。昭和の人間の私が言うのもなんですが、「ひろゆき」さんは面白いです。

 

私が「ひろゆき」さんを面白いと思う理由は、彼が「論破」するご相手が、その分野のいわゆる「専門家」の方が多いからです。はっきり申し上げて、「専門家」、例えば大学の先生方(私自身もかつてはそうだったんですが)は、「素人」に反論されることに慣れていません。お山の大将です。授業中に、学生さんに「お前の言ってることは矛盾している、頭が悪いのか」と面と向かって言われたことのある先生は、おそらく日本にはいないでしょう(陰ではたくさんいるでしょうが)。

 

「専門家」だって人間です。いい加減なことを、深く考えもせずに言うことは、しょっちゅうです。論理だって、いつも完璧ではありません。ただし、それを面と向かって、しかも「素人」に指摘されることはまずありません。従って指摘されると、動揺して、しどろもどろになります。「ひろゆき」さんは、この「専門家」の脆さを暴くので、けっさくです。

 

ひろゆき」さんを痛烈に批判されている方のビデオも、いくつか拝見しました。彼の論理は「詭弁」(特に「藁人形」誤謬)である、彼の示す証拠は選択的だ、などとの意見でした。全く同感です。しかし、それで彼にどうしろと言うのでしょうか。

 

ひろゆき」さんは、単に相手の論理の矛盾・痛いところを、「揚げ足」とって大袈裟にたたいているだけです。政治家の答弁(詭弁)はこれよりもっと酷いのもたくさんあります。近頃では、ニュース番組でも「選択的証拠」だけを報道するものが多いようです。なぜ、エンターテイナーの彼に「公正中立」で「完璧な論理」を期待するのでしょうか。私にはよくわかりません。もっと社会的に重要な人、例えば政治家・ジャーナリスト・「専門家」の人たちにこそ、もっと「公正中立」で「完璧な論理」を要求するべきではないでしょうか。