昭和の化石の英語教室

昭和の終わりに日本を離れたラッキーな老人の英語教室

コロナが始まった時、武漢にいた私たち

私はずっとアメリカに住んでいたんですが、約10年前に中国・武漢に移ってきて、今もここにいます。2019年の終わりに武漢でコロナが始まったわけですが、その時もここにいました。当時の話です。

 

最初始まった時(2019年の十一月)には、何が起きているのか全くわかりませんでした。人から人に移る「伝染病」なんだということも、わかっていませんでした。パニックに陥っている人もいましたが、私は楽観的な方なので、どうせインフルエンザの類の大騒ぎだと思っていました。

 

ところが騒ぎは収まるどころが、どんどん広がって行きました。コロナで倒れる人だとするでっちあげのビデオなども、「微信」(中国のラインみたいなアプリ)で拡散しました。政府の検閲も追いつかない状態でした。

 

やがて武漢人に対する差別が始まりました。湖北省武漢湖北省の首都)のある街では、武漢人は入れてやらないと聞きました。コロナが始まってひと月くらいのことです(十二月の終わり頃)。この時上海にいる友人を訪ねる予定だったのですが、私の方からキャンセルしました。

 

武漢が「完全封鎖」(lockdown)されるのはこのひと月後(2020年一月の終わり)なんですが、それまでの一ヶ月が一番ひどかったようにおもいます。武漢は人口一千万以上の大都市です。ちょっと咳や熱が出たというだけで、膨大な数の人が病院に押しかけるので(中国にはクリニックみたいなものはありません)、大変なことになりました。それで、当局の許可なしには、病院には行けないことになってしまいました。このせいで、たくさんの方が亡くなったということです。

 

日本大使館から電話があったのは、確かこの大パニックの最中だったと思います。日本に脱出するチャーター便を用意したので乗るか、との話でした。中国人の妻を残して私だけ「逃げる」わけにはいかないので、お断りしました。

 

完全封鎖も突然やってきました。「明日から武漢は封鎖」との通知でした。一月の終わりです。通知後すぐにスーパーに買い出しに行ったのですが、まさに大混乱でした。多くの人が殺気だっていたように記憶しています。食料はほとんど調達できませんでした。帰りにガソリンスタンドに寄ったのですが、長蛇の列だったので、諦めて帰りました。この後、三ヶ月ほど運転はできなくなります。おかげでバッテリーが死んでしまいました(笑)。

 

封鎖の始まった頃には、私たちのコミュニティ(高層マンションの団地;フェンスで囲まれています)ではまだ外に出ることができました。が、ほとんどの店がしまっていて、ゴーストタウンのようでした。やがてバリケードが設置され、コミュニティの外には出られなくなりました。敷地内でも、誰も歩いていませんでした。消毒剤を噴射する車が走っているだけです。

 

食料・日用品はアプリで注文するとマンションの地下駐車場に配達してくれます。費用を節約するために、マンションの住民が協力して「まとめ買い」をするようになりました。この点、中国人はすごいなと思いました。何も不自由はありませんでしたが、私の大好きなアイスクリームだけは調達できませんでした。

 

この状態が、二ヶ月半以上続きます。非常に退屈でした。あまりに暇なので、結構な人が、面白おかしなビデオを作って「微信」にアップしていて暇つぶしをしていました。一方、テレビでは毎日「武漢がんばれ」の愛国的な放送ばかりで、あれはちょっと馬鹿馬鹿しいと感じました。別に戦争しているわけではないので。私の知っている中国人の中でも、それをみて勇気をもらっている人はいなかったようです。とにかく、非常に退屈でした。