昭和の化石の英語教室

昭和の終わりに日本を離れたラッキーな老人の英語教室

博士課程に行くのは自殺行為です。

大学院という所は本来、自身の研究室を持つ「独立の研究者」を育てる所です。では「博士課程」を修了した人のうち、一体何%くらいの方が「独立の研究者」になっているのでしょうか(ポスドクは除く)?

 

日本の統計はよく知りませんが、アメリカでは、自然科学系のPhDの内、10人に一人くらいが最終的に「独立の研究者」となります。日本もそんなもんだと思います。文系では、もっと低いかもしれません。でも、かつては違いました。私が「理学博士」になったのは1980年代の後半ですが、当時「理学博士」の半分以上が、最終的に大学とか国立研究所の教官になっていました。今は違います。一つの大きな原因は「博士」の量産だと思います。

 

少なくとも理系の大学院生、特に「博士課程」の院生は、「使い捨て」のような悲惨な状態になっています。40歳になっても、まだ安定した収入の得られない「博士」は十分に考えられるし、実際そういう方もアメリカにはいらっしゃいます。

 

ここで重要なのは、仮に10%の「博士」が「独立の研究者」になれるとして、自分がその10%に入るかどうかは、自分の才能・努力以外の「運」の影響が大きいと言うことです。どんなに優秀な人でも、「運」が悪いと、この10%に入れません。これを、絶対に忘れてはいけません。例えば、自分の指導教官がいい人間かどうか、実験がうまく行くかどうか、また自分の研究が流行りの分野かどうか(Cell/Nature/Scienceに載るかどうか)ー こういったことは、あなたの才能・努力だけの問題ではありません。

 

ところが、大学教授の先生方のほとんどは、自分が「運」で教授になったとは誰も思っていません。一般的に言って、成功した人間は、成功した理由は主に自分の努力・才能だと思っています。「私がここまで来れたのはあの人のおかげ」とおっしゃる人はいても、「私がここまで来れたのは運のおかげ」と言う人は、あまりいません。言ったにしても、本当にそう思っているかは怪しいもんです。大学教授も同じです。

 

これは、必ずしも悪いことではないのですが、成功した人の話をそのまま鵜呑みにするのは、大変危険です。成功した理由を自分の都合の良いように解釈しているからです。大学の先生方と同じような、あるいはそれ以上の才能があり、また大変な努力を重ねたのに、たまたま大学教授になれなかった方々が、たくさんいることを忘れないでください。