昭和の化石の英語教室

昭和の終わりに日本を離れたラッキーな老人の英語教室

「鞄持ち」について

あらかじめ断っておきますが、ここで言う「鞄持ち」とは、上の人にへつらう人のことで、一般的な補佐役の方を指しているわけではありません。英語では「brown noser」「ass kisser」あるいは「butt snorkeler」(これはかなり汚い言い方; 上品な人には誤解されるかもしれない)などと言います。

 

鞄持ちは結構どこにでもいます。昔の話で恐縮ですが、私が日本の大学院生だった頃(昭和50年代)にも、教授の鞄持ちをやっている方がいました。学会などで先生の鞄持ちを務めるだけでなく、教授の息子の家庭教師などもやっていました。お金をもらっていたのかは知りません。大学院卒業後、彼は教授の研究室の助手に抜擢され、やがて彼自身、国立研究所の教授となりました。

 

鞄持ちの方を見ると、はっきり言って、私は頭にきます。「ばち」が当たればいいのに、と強く感じるのですが、大抵「ばち」は当たりません。それどころか、往々にして、鞄持ちの方はそうでない方よりも出世します。よって、さらに頭にきます。

 

そこではっと、思いついたことがあります。鞄持ちの方は、私も含めて普通の人には無い、なんらかの「才能」があるのではないかと。言い換えれば、私達凡人がどんなに「よし、俺・私も明日から鞄持ちになろう!」と思っても、そんな能力が初めから無いのではないか。私たちは鞄持ちに「ならない」のではなく、「なれない」のではないか、との可能性に気づいたのです。

 

鞄持ちの仕事を立派にこなすのには、能力が必要なのは明白です。言葉遣い、態度などのほか、空気を読む力、変なことを言って周りの雰囲気をぶち壊さない能力、などなど、単に機嫌取りだけの能力ではありません。誰の鞄を持つかの判断自体もいい加減にはできません。正直言って、私の苦手なものばかりです。

 

鞄持ちが才能だとすると、彼らに対する私の感情は、単なる嫉妬ではないか。私は、過去40年間の長きに渡って、この問題について格闘してきました。そして、いまだに結論が出ていません。「怒りの持って行き場」がいまだに見つかりません(冗談です)。